親子三人、グァテマラに住む |
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Xelaでの暮らし |
インディヘナ、ラディーノ、グリンゴ、チノインディヘナというのは、スペインがこの地域を征服する前からここに住んで いた先住民達の子孫で、インディオという名称も使われる事があるが、これは 非常に差別的な言葉なので、教養がなくかつ差別的な人の間でしか今は使われ ていない。 グァテマラのインディヘナはほとんどがマヤである。南部の方にごく一部マヤ でないシンカと言われる人達がいるらしいが、わずかなので、その存続は危ぶ まれているようだ。ある記事では、そのシンカの言葉を話せるのは7人の老人 だけと書かれていた。 マヤの中にはたくさんのグループがあり、グァテマラの中では、22の異なる言 語がある。私達が住んでいるXelaのあたりにはキチェ語を話すというキチェグ ループの人達が多くいる。同じマヤとは言っても、それぞれのグループによっ て高山地域、海岸地域、熱帯雨林地域など、気候的にも大きく異なる地域に住 んでいるし、文化的にもかなり幅がある。 マヤの人達が500年間の差別にあえぎながらもその文化の独自性を根強く維持 していることは驚嘆に値する。グァテマラではマヤ人が多数派であるという、 数による力というものがあるようだが、それでも500年間、スペイン語を知ら ない連中はバカ扱いされる中で自分達の言葉を失わないということは並大抵の ことでないであろう。 ラディーノというのは、スペイン人とインディヘナの混血の人達のことで、メ スティーソといういい方の方がより一般的な名前であろう。ラディーノは「ラ ドローネス=泥棒」が語源で、昔スペイン人が「スペイン人の血を盗んだやつ ら」という差別的な意味でそう読んだのが始まりらしい。そういう差別的な意 味合いの事はもう気にしてないのか、忘れてしまってみんなもう知らないのか、 とにかくグァテマラではスペイン人とインディヘナの混血を先祖とする人達は みんなラディーノと呼ばれる。 他にクリオーヨと言う純粋スペイン人子孫、ガリフナと言うアフリカ系移民の 子孫などがわずかにいる。 グリンゴは基本的にはアメリカ人(アメリカ合衆国人)のことを言うようだが、 たぶんカナダ人も含まれるであろう。ヨーロッパ人の白人がグリンゴに含まれ るのかどうか、その辺は人によって違うかもしれない。中南米の国の中には全 ての外国人をグリンゴと呼ぶところもあるらしい。とにかくグァテマラにたく さんいるのは北米からやってきている人で、今は旅行、仕事、語学勉強、ボラ ンティアなどで来ている人達が中心で、内戦時は政府軍がインディヘナを殺し まくることを教えに来ていた軍人が多かったようだ。グリンゴの語源は諸説あ り、私はどれが本当なのか知らない。一番よく聞くのは、昔メキシコとアメリ カが戦争をしている時に、グリーンのユニホームを来ていたアメリカ軍に対し て、人々が「アメリカ人帰れ」という意味で「グリーン、ゴー」と言ったこと から、グリンゴという言葉がアメリカ人を指すようになったという説である。 グリンゴは観光地に行くとかなりいるし、語学学校がたくさんあるXelaにもか なりいる。私達も、なんだかんだいいながら、グリンゴコミュニティにはいろ いろお世話になっている。 東アジア系の人は、中国人を指すチノ、チナ、あるいはもう少し愛嬌をこめて チニート、チニータと呼ばれることが多い。中国人でもないのにそう呼ばれる のは日本人としてはあまりいい感じのものではないが、中国人、韓国人、日本 人などを区別できるわけもないグァテマラ人が総称してそう呼ぶのはしょうが ないというものであろう。そもそも19世紀末にグァテマラが労働力を必要と していた時期に中国系移民がやってきて、その時期からじょじょに東アジア人 =中国人というイメージができあがったようだ。初期の中国系移民は奴隷労働 に近いような最低辺の肉体労働を担っていたので、「チノ」という時にそうい う人達に対する差別的意味合があったかもしれないが、現在はほとんど差別的 な意味をこめて使われることはないと聞く。そういう移民の子孫達が作る、中 国系移民は約1万5千人程度グァテマラにいる。 韓国系移民、現在1万3千人程度グァテマラにいるが、こちらは中国系よりももっ と力を持っている。というのは、マキラと呼ばれる衣服繊維工場の45%は韓国 人が握っていて、それ関係の150の企業がグァテマラに存在していて、首都の グァテマラシティーでは、韓国語新聞も出回っている。グァテマラ人に労働を 提供する代わりに税金は免除されるというようなグァテマラと韓国の政府間の 条約のようなものがあるらしく、韓国企業はその特典を最大限に活用している らしい。 マキラの労働環境は劣悪らしく、私のスペイン語の先生の一人は、マキラがど ういうものか体験するために2週間程働いてみたことがあるそうだが、彼には とても長期間続けられるような労働環境ではなかったと言っていた。日本にも 昔はよくあったと聞く奴隷的労働をしいる劣悪な工場労働環境なのだろうと私 は想像する。そういうこともあり、韓国人と聞くとマキラでグァテマラ人をこ き使っているいやな連中というイメージがあるらしく、少なくとも私の知って いる多くのグァテマラ人はあまりいい顔をしない。体験労働をしたというスペ イン語の先生は、「それでもグァテマラ人に労働を提供しているという事実は 確かにあり、とにかく現金収入が必要という人にとって役に立っている」と、 マキラをぼろくそにけなすことはしていなかったが、その先生は決して人の悪 口は言わないようなタイプのおだやかな感じの人である。 公園でQPと遊んでいた時に「韓国人ですか」と声をかけてきた、QPよりちょっ とだけ年上の女の子をつれたグァテマラ人の若いお母さんがいたが、その人は 夫が韓国人で子供は韓国人とグァテマラ人のハーフということであった。その 後その家族と少し知合いになってみると、その人達はたいへんな金持で、グァ テマラで手広く洋服屋さんをやっていた。韓国人の夫の方の兄弟がそろってグァ テマラで洋服関係の仕事しているらしいから、まず間違いなくマキラ関係で財 産を作ったのであろう。 たまたまグァテマラでは韓国がこういう位置にあるが、日本の海外での経済活 動を考えると、この位置が日本であることも十分ありえる。「日本人だから、 マキラでグァテマラ人をこき使っている韓国人とは違います」と考えるべきで はなく、日本・韓国で同じ構造を担っていて、自分はその本国の一員であると 自覚するべきだろうと私は思う。 女性、特に若い女性はやったらめったら「チナ」とか「チニータ」とか呼びか けられようだが、これはむしろマチスモ文化の方から来ているのであろう。私 がQPと一緒に町を歩くと、いろいろな人から「チニータ」と声をかけらるが、 これは「あらまぁ、かわいいアジア人」という感じの呼びかけであり、悪い感 じを受けることはない。たまにQPに向かって「チナ、チナ」と言ってくる人が いるが、これは自分の子供に向かって、まるで犬でも呼ぶかのごとく声をかけ ているようで相当感じが悪い。仮りに私が中国人であったとしても、その感じ 方は同じであろうとう思う。 私が一人で歩いている時は、まれであるが、「チノ」とか「チニート」と言わ れることがある。日本でも昔、外国人がめずらしかった時には外国人を見掛け ただけで、「おや、外人さんだ」という感じの事を口にしていたと思うがそれ と似たようなものなのだろう。一度だけ、少しいやらしい感じで「オラ、チノ」 と言われたことがあって、その時は少し気分が悪かったが、日本でもいろいろ な人がいて「外人」と少し軽蔑的な口調で呼びかける人もいることを考えると、 グァテマラにそういう人がたまにいてもおかしくはない。 日本で外国の人を見て「外人」と言うのが差別であるというのを実感するのは 難しいだろうと思うが、グァテマラ人にしても東アジア系の人を見て「チノ」 「チナ」と言うのがどこが差別であるのかを実感するのは難しいだろう。一般 的に言って、珍しい存在であるからと言って、その人の属する呼称を連呼する かのごとく口にするのは、差別であろうと私は思う。「珍しい存在」に対して、 それがただ「珍しい」故に口から出てくる言葉というのはあるであろうが、相 手が人である場合、その人達は「珍しい存在」を脱するまである種の嫌な感じ に耐え続けねばならないということを考慮すべきだろう。「好き好んで『珍し い存在』になっておいて何を言うか」というのは論外である。異種を受け入れ る存在としての人間であれるかどうかを論じているのであって、そこにその異 種の存在理由が入ってくる余地はない。 グァテマラの東アジア系人種という存在になるまで、私は自分が本当に「珍し い存在」の立場に立ったことはなかったので、初めてそういう人達の感じる事 を実感できた気がする。 インディヘナスに対する差別このテーマは少し重いテーマである。 一般教養的に、いろいろな差別があることを並べたてるのは簡単であるが、そ れで何か自分は差別する人達とは違うと思い上がってしまうことの方が恐い。 そもそも旅行者だのボランティア労働者だの、そういうお客さん的立場の人が 差別の問題に真に直面させられることはない。お互いが、それぞれの生活基盤 をかけた利益の攻防の中で初めて見えてくるものがあり、そういう事の中でな いと差別はなかなか現われてこない。逆に、そういう事の中に深く差別がある からこそ、それを克服するのが難しいのだろう。 特に教養のある人達は、多数派がインディヘナの国で、政治も経済もほとんど ラディーノが握っている事の問題点は把握していて、それを変えていくべきで あるということにも同意している。その人達の生活基盤が脅かされない限り、 口から出てくるのは良心派としての外交辞令の様な言葉ばかりだ。 ボランティア労働者という立場で、主につき合うローカルな人達はそれなりに 教養のある人達が多い、という私の環境では特別に何かが見えるのを期待する というのはそもそも無理である。しかし、「無理」だからと言って「はっきり ある問題」に対して何も考察しないというのは、何か逃げているようでもある。 というわけで、かなり浅薄な内容、あるいはかなりまとはずれな内容になると 思うが少し何か書いておこうと思う。 まず、言葉。インディヘナスの人達はスペイン語ができないが故に相当の不利 を被るだけでなく、一クラス下の人種的扱いの仕打ちに耐え続けているという 話はよく聞く。はっきり言って、お客さん的立場の人間はスペイン語ができな いからと言って、少なくとも軽蔑されているような感じを受けることはない。 USを旅行したことのある多くの人が、英語がろくにできないと「ばか扱い」さ れることに不快感を覚えたことがあるだろう。一方、グァテマラのような第三 世界を旅行しても、現地語ができないことによってそのような不快感を覚える ことは少ないだろう。USの人々が大国の住人ゆえのおごりを特別に持っている と考えがちで、私も一時期その様な考えをもったことがある。しかし、これは 純粋に金の問題であろうと思う。USにやってくる英語のできない人は、ほとん どがUSの住人より貧乏である、それ故その人達に特別に親切にしても得られる 利益は少ない。英語を話せる人により親切にして、より多くのサービスを提供 した方が金になる。もちろん全ての人が金に動かされているわけではないが、 鳥瞰して一つの傾向を眺めればそういうことだ。 一方第三世界では、普通の人は旅行などできる余裕は持ち合わせてないから、 旅行者は一般的にバックパッカーといえども、そこの住人よりはるかに金持で ある。さらに、貧乏な国に命懸けで不法入国してくる人などいるわけもない。 一般的に現地語を話さない旅行者に親切にすれば、現地語を話す人間に親切に するよりはるかに儲かる。 グァテマラでは、スペイン語をうまく話せない人達が二種類あり、若干事情が 異なってくる。一つは、旅行者や私の様な長期滞在者の外国人、その人達は親 切にすれば儲かる連中である。 もう一つはマヤ語の一つをしゃべるインディヘナスであまりスペイン語がしゃ べれない人達、グァテマラの中でも貧困層を形成している。こういう人達が受 ける扱いは、おそらく私がUS で「ばか扱い」されて不快だったことをはるか に越えるものがあるのであろうことは容易に想像がつく。しかし、自分で実感 するのは難しい、私がインディヘナスと勘違いされることはありえないし、 Xelaのような都会ではインディヘナスの人々もほとんどみんなスペイン語をしゃ べるので、インディヘナスの人々が不当な扱いを受けている現場にでくわす機 会もない。銀行の窓口で、何かべらべら言われて、「困ったなぁー」という表 情で去っていくインディヘナの人を見かけるようなことはあるが、実際に何が 起こっているのか定かではない。 マスコミなどは、もっとよりはっきりと金が全ての世界であるからにして、何 か「地元の文化紹介」的な扱い以外でインディヘナスが登場することは皆無に 近い。テレビなどはだいたいがUSの番組のスペイン語吹替えものが多く、それ ももともとはUSに住んでいるスペイン語をしゃべる人をターゲットにした番組 をそのまま持ってきたものである。QPが喜んで見ているナショナルジオグラ フィックやニックジュニアーの子供番組など、全てその類である。当然、そこ に出てくるコマーシャルは100%ラディーノをターゲットにした世界で、購買力 のない層をターゲットに広告をうつスポンサーはどこにもいない。 子供のおもちゃのようなものを見ても、世界中で売れる様に大量生産されたも のが輸入されているだけであって、グァテマラ人がグァテマラ人のために企画 した商品などは量産商品の世界では存在しない。スペイン語圏をターゲットに した商品は存在して、浅黒い顔の女の子が主人公の「ドラ」というテレビ番組 がヒットしているので、そのキャラクター商品のようなものが存在する。「ド ラ」は明らかに白人ではなく、そして黒人でもない。ラディーノにとっては非 常に身近に感じられるキャラクターであるがゆえに、US在住の中南米からの移 民を中心に大ヒットしているのであろう。最近はドラの従兄弟のディエゴとい う男の子が登場する番組もはやっていて、QPはこちらの番組の方が好きで、わ が家にもそのDVDがある。 バービー人形の様なものとは明らかに異なる世界があるのは多少の救いである が、それでもインディヘナスにとってはバービー系にしてもドラ系にしても、 自分達からはほど遠い存在であろう。手作り人形の世界があるから、何もそう いう大量生産おもちゃに頼る必要はないとは言っても、大量生産品の浸透力の すさまじさから逃れることはグァテマラの田舎といえでも難しい。 要するに、グァテマラでは多数派のインディヘナスは、一度「マス」の世界に 目を向けると、その存在がないのである。どこかに、はっきりとした悪意のあ る差別が存在するわけではない。ただグァテマラという小国で多数派であって も、世界的に見れば取るに足らないごく一部の貧困層で、世界的規模で流通す る商品経済の中で、その存在がないのは当然と言えば当然だ。「世界的規模で 流通する商品」の暴力的ともいえる浸透力から逃れられない以上、自分達が無 視されている世界を受け入れるしかない。 インディヘナスにしてみれば、それを受け入れながらも自分達の文化を維持し て生き延びる術を身につけていくしかないだろう。「世界的規模で流通する商 品」が全ての生活をカバーするわけではないから、それがカバーしきれない部 分の中で、そういう術を発揮する余地はあるだろう。その余地での活動を何か ヘルプすることが、それを「受け入れさせている側」ができる、せいぜいの罪 滅ぼしであろうか。いや、罪滅ぼし以上に、そういう術を学んでいる面も大き いであろう。私がグァテマラでやっているボランティアが何かそういうものに なっていればうれしい。 「差別はいけない」という理念と、現実社会がグローバリゼーションの名の下 に押し進めている差別性、その矛盾は深い。今や、理念だけでは世界中が反差 別であり、グァテマラでもそれは同じである。いくらきれい事を並べても、強 者が弱者を踏みつぶしながら進んで行く残酷な現実には手のつけようがない。 それは、自然の中の残酷さの一部なのだろうか。グァテマラのインディヘナス はきっと生き延びていくと信じるが、その残酷さの下で、再び次の500年間も あえぎながら生きていかねばならないのだろうか。そうはならない方向に変わっ ていく論理は、はっきり言って見えない。しかし、どこかにあると信じて希望は 捨てないようにしよう。 深い矛盾を見つめるか、見つめないか、絶望するか、絶望しないか、日本にい たりしたらそういうことでグジュグジュと悩むものだが、グァテマラのインディ ヘナスにとっては自分達が生き延びるためには悩んでいる余裕などないだろう。 ムチャチャしばらくグァテマラに住んでいると、やや裕福なファミリーがインディヘナの 若い女の人を連れ歩いているのがよくあることに気がつく。ムチャチャと呼ば れる使用人の若い女の人である。 スペイン語では若い女の人を指す言葉にはいろいろあるが、グァテマラで気が ついたところでは、チカと言うと性的対象としての女という意味が強く、ムチャ チャと言うと労働を提供する女としての意味が強い。 ムチャチャのほとんどがインディヘナスで、それを雇っているファミリーのほ とんどがラディーノのファミリーである。それは単に誰が貧乏で誰が金持であ るかを示しているのにすぎない。インディヘナスの圧倒的多数が貧困ライン以 下で暮らしている国で、金持が貧乏人を個人的に使用人として雇う雇用形態が 存在すれば、そういう現象が現れるのは当然である。 どこの国でも金持は貧乏な人間を雇う。そこには、「主人」と「召使い」の様 な関係がある。金持国では、「貧乏な人間」と言ってもそんなに極貧ではない から、露骨に「召使い」的な労働は存在しないか、少なくとも直接見えるとこ ろには存在しない。 グァテマラでは「貧乏な人間」というのは極貧である分、「召使い」的な労働 が非常に露骨に現れてしまう。ムチャチャの労働対価は非常に低い、その上個 人的に雇われているその立場は非常に弱い。PLQの複数の先生から聞いた話で は、その弱い立場ゆえに雇用主から性的関係を強要されたりということはいた るところにあるという。 露骨な「召使い」的労働を目にするとなんとも言えない悲しい気分になるが、 しかしそれが私達の現実の世界である。世界から極貧がなくなれば、同時にこ の露骨な「召使い」的労働もなくなっていくのであろうが、現状ではその方向 に向かっていないようだ。 <p align=right>(2008年03月04日)</p> |
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